虎に翼 グランドフィナーレ
実在の人物、しかも歴史に記録されるようなひとをドラマにすると、大抵の映画やドラマはそこ巨星の輝きで周囲が曇り単調になってしまう。おそらく今のアメリカドラマであれば、虎子は既存のしがらみと戦うジャンヌ・ダルクとして描かれただろう。
脚本家の先生は「敵」をあえて「虚無」として描いた。わかりやすい人物敵を作らなかった。虎子達が戦うのは「秩序」を掲げた「惰性」。戦争も人権蹂躙も、ひとが空気を読んで考えるのをやめた時に生まれる鬼子である。
もっとも大胆な作劇は穂高先生との関係と確執。あれほど残酷な展開は朝ドラでははじめて観た。最後に二人が形式的?に和解したシーン、構想段階では入れたくなかったのかもしれない。穂高先生が織り込んだ縦糸は、最終週で鮮やかな模様となった。
「タロットは当たるのではなく、自ら思い当たるのだ」
この言葉のようなドラマだった。イデオロギーもメッセージも道徳も言葉は空虚。しかし、それは視聴者が思い当たった瞬間に花咲き身を結ぶ。