@omasanori ボクは「GNUのライセンス及びGNUの精神に則るならGNUのライセンス及びGNUの精神としての振る舞いをすることが求められる」って考えてますよ
@omasanori ボクはそもそも誰がそのライセンスを選択したのか?と考えるわけです
当然ながらライセンスを選択したのは作者です
作者は自発的にそのライセンスを選択した責任があるし、何故GNUを冠するライセンスを選択しておきながら振る舞いを違えるのか?と思うわけです
つまり「ライセンスへ一貫した真摯な姿勢を取る覚悟が無いのであれば初めから選択するべきではなかったのでは?」という解釈です
ボクはライセンスを名乗るなとは言いません。その姿勢に疑問を投げかけます。
@keizou 私の立場は、仮に(ある立場からみて)望ましくないコードがあったときは、コード自体に焦点を当てる方がより的確だというものです。GPLよりも広い範囲での良い振る舞いを求める心情を理解できないわけではありませんが、そこは分けて話す方が良いと考えています
@keizou GNUの精神というのが四つの自由を指しているのだとすれば、それと今回の件は直接関係しないと理解しています(freeの意味を明確にするためにfree as in speechというフレーズをよく使いますが、四つの自由そのものには含まれない。だからといってFSFが言論の自由を軽視しているわけではなく、私が今回の件について肯定的なわけでもない)